時代の先端を歩んだマリア・モンテッソーリの人生。型破りな私生活と輝かしいキャリアを追う

マリア・モンテッソーリ

赤ちゃんのおもちゃを検索していると、「モンテッソーリ」という名をしばしば目にします。
その名が冠されたおもちゃ(教具)を見ると、木製で色が美しいもの、形そのものに魅力があるものなど、シロウト目に見ても安価なおもちゃとは一線を画する感じがあります。

モンテッソーリ教育を確立したマリア・モンテッソーリは、「遊ぶことは子どもの仕事です」と生前語っていました。
おもちゃは、子どもたちがなすべき仕事を可能にするひとつのツールであるというわけですね。

社会的、感情的、創造的感覚を養うことを目的にしたモンテッソーリの教育法。実践的で自立した世界を子どもに与えるために、20世紀の初頭に生まれたメソッドです。

その教育法を確立したマリア・モンテッソーリとはどんな女性であったのでしょうか。

今回は、女性が活躍するのが難しかった時代に、子どもたちの教育に人生を捧げた彼女の人生をご紹介したいと思います。

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マリア・モンテッソーリの生まれた時代と環境

マリア・モンテッソーリの肩書を並べて書くと、次のようになります。教育者、医学者、児童精神医学者、科学者、フェミニスト、などなど。

才能にあふれ、努力を惜しまなかった方なんでしょうね!

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輝かしい経歴を持つ彼女は、いつの時代に生まれて活躍したのでしょうか。そして、どうして教育への道を歩むことになったのでしょうか。

私生活もなかなか波乱があったマリア・モンテッソーリの人生を追ってみましょう。

マリア・モンテッソーリの家族と思春期

マリア・モンテッソーリは1870年生まれ。アドリア海に面したアンコーナという町の郊外に誕生しました。

日本だと江戸時代が終わったばかりの明治3年。まだ髷(まげ)を結ったままの人が残っていたころですね。

後にマリアの息子によれば、マリア・モンテッソーリの故郷への想いは生涯深く、1950年にアンコーナにモンテッソーリの学校を設立した際には「故郷でならば死んでもかまわいlと語っていたそうです。

マリアが生まれたモンテッソーリ家は典型的な中産階級に属していました。
経済的には比較的豊かであったものの、女性の教育にはあまり熱心でなかった父を持つ当時の典型的なイタリアの家庭でした。

当時はまだまだ女性に学は必要ないと思われていたんですね。。。

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マリアの幼少期は、小地主の娘として生まれて文学を愛好した母レニルデの影響下で形づくられます。
母方の親戚には地質学者として有名な学者もいました。

当時の風潮に忠実に、マリアが平凡な主婦となることを望んだ父とは対照的に、マリアの向学心を理解したのも母のレニルデであったといわれています。

マリアが10代になった頃、家族はフィレンツェへ、そしてローマに移住します。
当時のマリアは非常に活発な少女で、「女性の職業として最もふさわしいのは医療に従事することだ」と主張し、ローマ・ラ・サピエンツァ大学の医学部に入学します。

時代の先端を行く女性マリア・モンテッソーリ

マリア・モンテッソーリは1896年、26歳の時に大学を卒業。イタリアでは初の女性医学博士となりました。

当時のマリアは、細菌学を専攻していたため研究室で過ごすことが多かったといわれています。
実際の大学の成績では、マリアは小児科学でも良い成績を収めていて、卒業の前年に奨学金まで獲得しています。

その後、当時マリアが師事していた教授の影響で、障がいを持つ子どもの心理の研究を開始します。
当時のエリートとしては普通ではない選択であったため、奇異の目で見られることもありました。

当時はまだ、障がいがあることが大きく差別されている時代でした。そんな時代において、モンテッソーリは障がいを持つ子どもたちを出発点にしている。強い信念を感じます。

後に、マリア・モンテッソーリはフェミニストとしても名を馳せますが、その萌芽もこの時代に生まれました。
学会で欧州各国を回ることが多かったマリアは、18世紀終わりにフランスで生まれたフェミニズムに傾倒したのです。

1896年には、ベルリンで開催された女性会議にイタリア代表として出席、男女同権を訴えて熱弁をふるいました。

教養ある女性として、マリア・モンテッソーリは子どもへの教育と女性の権利という近代的なテーマを、生涯追い続けることになるのです。

まさに時代の一歩先を進んでいた人だったんですね。

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マリア・モンテッソーリのキャリアと私生活

男女同権どころか、男性を凌駕する才能とバイタリティで若き時代を歩んだマリア・モンテッソーリ。その情熱は、私生活にも及びました。
キャリアとスキャンダル、良くも悪くもマリア・モンテッソーリは近代的な女性像の体現であったのでしょうか。

大学卒業後の輝かしいキャリアと教育学への移行

1898年にトリノで開催された教育学における学会で、マリア・モンテッソーリは研究を発表し大いに注目されました。
このことが決定打となり、彼女は教育学へと道を定めます。マリアは、教育学を極めるために哲学の学位も取得しました。

マリア・モンテッソーリの研究は、徹底的な実証主義に基づいていました。これが、当時の学界では評価されて、彼女はいくつもの奨学金を手にすることになったのです。

後に、実際的なモンテッソーリ教育法を提唱する地盤が、この辺りにも垣間見えます。
マリアはその後、精神に疾患を持つ子どもたちの教育をテーマにすることになります。そして、そこからある関係が生まれたのです。

キャリアと相反する破天荒な私生活

精神的な疾患を持つ子どもたちの教育の研究を進めていたマリア・モンテッソーリは、同僚の1人と愛し合うようになりました。
2歳年上のこの同僚となぜ結婚しなかったのかは謎ですが、1898年にマリア・モンテッソーリはマリオという男の子を出産。

スキャンダルを怖れたマリアは、マリオをローマ郊外の小さな町に住む知人に預け、養育をゆだねます。母と息子が共に生活するようになったのは、なんとマリオが14歳になった時でした。

息子さんとは長い間会えない期間があったんですね・・・

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やがて、この愛人は別の女性と結婚してしまいました。マリア・モンテッソーリは、その時から黒い衣服だけを身に着けるようになったそうです。
突然の愛の終焉と息子を手放さざるを得なかったという二事は、順風満帆であったマリア・モンテッソーリの人生に大きな影響を与えました。

シングルマザーとして社会の第一線で活躍し続けたマリア・モンテッソーリは、私生活においても近代的な女性像の象徴であったといえるかもしれません。

本当に時代の先を進んでいたとしか言いようがないですね。今の時代に生きるわたしたちには理解できますが、当時はこれがどれほど大変だったことか。

モンテッソーリ教育の確立

愛する人との別れ、息子の誕生など、人生の山谷を超えたマリア・モンテッソーリはその後、研究者と教育者の道を邁進することになりました。

40歳を前にしてマリア・モンテッソーリが設立したのが、有名な「子どもの家」です。

日本にも「子どもの家」という幼稚園や保育園がありますね。

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しかし、時代は世界大戦の時代に突入します。壮年のマリア・モンテッソーリは、その時代をどのように生き抜いたのでしょうか。

日本では明治終盤から大正にかけて、日露戦争や第一次世界大戦の時代です。タイタニック号沈没、スペイン風邪の大流行も同じ頃です。

『子どもの家』の誕生

1907年1月、マリア・モンテッソーリの母校ローマ・ラ・サピエンツァ大学にほど近い場所に「子どもの家」が設立されました。

それまでは、障がいのある子どもたちのための教育を研究してきたマリア・モンテッソーリは、ここで初めて外で仕事をする両親を持つ子どもたちのための教育機関を作り上げたのです。

「子どもの家」の設立は、障がいのある子どもたちの教育に用いたメソッドが、通常の子どもたちにも立派に通用することが証明された結果でもあります。

マリアは、この「家」の設立にあたり、「子どもたちのための家ではなく、子どもたち自身の家」であることを強調しています。

つまり、子どもたちが年齢にふさわしい仕事である「遊び」をこなしながら、自分が存在することの意義を感じることができる家、という意味でした。

マリア・モンテッソーリにとって子どもの遊びとは、それぞれの子どもの成長と発展を促す上で不可欠な「仕事」であったのですね。

ファシズムとマリア・モンテッソーリ

マリア・モンテッソーリはその後、オランダ、英国、スペイン、オーストリア、ブエノスアイレスなどをめぐりました。
各地で、彼女の教育法は熱意をもって迎えられたのです。

マリア・モンテッソーリ自身は、政治にそれほど興味がありませんでした。しかし、1924年にスペインからイタリアに戻ったマリアは、まずときの教皇ベネディクトゥス15世に迎えられます。

また、独裁者ムッソリーニも、当時のイタリア人の識字率の低さを憂い、マリア・モンテッソーリの教育に興味を抱きました。

そして、イタリアの学校においてモンテッソーリ教育法を実践したのです。
ムッソリーニが青少年の道徳感を養うために設立した組織にも、マリア・モンテッソーリの名があります。

しかし、1930年頃からマリア・モンテッソーリは平和への希求を隠さず、欧州各国で開催されていた平和に関する会議に出席するようになります。

これが、マリア・モンテッソーリとファシズムとの決裂へとつながりました。当時のムッソリーニの言葉として、

「モンテッソーリは、まったくウザい ( rompiscatole ) 存在だ」

とつぶやいたことが伝えられています。

1934年、ムッソリーニはイタリア国内のモンテッソーリの学校の閉校を命じます。同じく、ヒトラーもドイツ国内のモンテッソーリ校を閉校。マリア・モンテッソーリは、イタリアを去ることになったのでした。

世界各地に広がるモンテッソーリの学校

マリア・モンテッソーリはその後、自らの教育論の普及のために世界中を旅し続けました。
その結果、現在は世界中に2万2千に及ぶモンテッソーリの学校が存在しています。

面白いことに、マリア・モンテッソーリの母国イタリアではわずか138校が彼女の教育論を根幹とした教育を行っているのに対し、ドイツは1140校、英国は800校、そして彼女が死を迎えたオランダでは220校を数えます。

海外にはモンテッソーリ教育の小学校はもちろん、大学まであるんですよ。でも、日本では就学前まで。文科省の公認ではモンテッソーリの学校はつくれないんですね。

しかし、イタリアでは公立の学校でもモンテッソーリ教育を導入する動きも出ています。
通常のクラスの子たちが、大量の教科書を入れたリュックを両親に持たせて登校する傍らで、モンテッソーリのクラスの子はおやつだけが入った小さなリュックを背負って学校に入っていきます。

マリア・モンテッソーリが亡くなったのは1952年。

彼女が最期を迎えたオランダのノールとウェイクの墓石には、「あらゆる可能性を秘めた子どもたちよ、人類と世界の平和を私とともに築いてほしい」と刻まれています。

マリア・モンテッソーリの遺産

19世紀の終わりに生まれ、女性の活躍が難しかった時代に、子どもたちの教育において第一線で活躍したマリア・モンテッソーリ。
彼女が編み出したモンテッソーリ教育は、時代をこえて自主性のある子どもたちを育て続けています。

そんな彼女が残した文化的遺産に目を向けてみましょう。

マリア・モンテッソーリが残した名言

才能ある女性が、その澄んだ目で子どもたちを見るとどのような言葉となるのか。マリア・モンテッソーリの名言に、耳を傾けてみましょう。

「教育は、子どもの誕生時から始まっている」

「教育者たるもの、動かずに静かにしている子どもは良い子であり、常に動いている子どもは悪い子であるという先入観をもってはならない」

「子どもが成功を確信して遊びに集中しているあいだは、大人が手助けをしてはならない」

「大人と子どもの立場は、頻繁に逆転する。子どもはより優れた観察者であるために、親に同情したり喜びをともにしようとする」

「優れた教育者とは、『子どもたちは、私がいないかのように課題に集中している』と明言できる人である」

むむむ。どれもうなずかされるものばかりですね。身が引きしまります。

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モンテッソーリ教育を受けた著名人たち

モンテッソーリ教育を受けて活躍している人物は数多くいます。記憶に新しいのは、将棋界の彗星、藤井聡太七段(2020年時点)でしょうか。
藤井棋士の存在から、モンテッソーリという名前を知った方も多いかもしれませんね。

世界に目を向ければ、泣く子も黙るマイクロソフト創業者のビル・ゲイツも、モンテッソーリ教育を受けた一人です。

ゲイツだけではありません。
インターネット全盛の現在、世界を牽引する人びとの多くが、モンテッソーリと無縁ではありません。

Google創業者のセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、Amazonを率いるジェフ・ベゾス、Facebook創業者のマーク・ザッカーバグ、Wikipediaの創始者ジミー・ウェールズもしかり。

文芸の世界はどうでしょうか。

1982年にノーベル文学賞を受賞したガブリエル・ガルシア=マルケス、アメリカの新聞社経営者キャサリン・グラハム、また日本の中学生の必読の書『アンネの日記』の作者アンネ・フランクも、モンテッソーリ教育を受けています。

ヴァイオリニストのジョシュア・ベル、チェリストのヨーヨー・マなど、モンテッソーリの教育を受けて才能を開花させた人々は、枚挙にいとまがありません。

映画になったマリア・モンテッソーリ

残念ながらイタリアでの放映にとどまっていますが、マリア・モンテッソーリは2007年に母国イタリアでドキュメンタリードラマになりました。

『子どもたちに捧げられたある人生』という副題がついたこの映画、イタリアでは貨幣がリラの時代にお札にマリア・モンテッソーリの肖像が印刷されていたこともあり、イタリア人には親しみやすいテーマでした。

日本語で読めるモンテッソーリの本に、コミック版伝記があります。
モンテッソーリ教育関連の書籍は少しむずかしめのものが多いのですが、コミック版は忙しい方にもおすすめですよ。

子どもと読みたい!モンテッソーリの伝記コミック
マリア・モンテッソーリ自身ではなく、モンテッソーリ教育に興味がある方は「おうちでモンテッソーリ教育を!おすすめ本10冊ガイド!」でご紹介している本もおすすめです

さいごに

19世紀の終わりに生まれた女性としてまれなる高等教育を受け、医学者としても教育者としても活躍したマリア・モンテッソーリ。

研究や教育の場における新しいモデルであったにとどまらず、1人の女性としても規範となる生き方を貫いた人生でした。

多くの才能を世に送り出し続けるモンテッソーリ教育は、ぶれることなく時代を生きたマリア・モンテッソーリがわれわれに残した人類の遺産といえるかもしれません。